YOKOTA ism 〈横田イズム〉
家を「売る」のか、それとも「建てる」のか。
横田建設は、横田稔が昭和50年(1975)に創業し、地元さいたま市で家づくり一筋に歩んできた会社です。 会社を興した時、横田は自分自身にこう問いかけました。 「30年以上経てば、家の良し悪しがはっきりしてきます」とむしろ楽しそうに言う横田。そこには、間違いのない家づくりをしてきた自負が溢れています。いつの頃からか、家が何世代にもわたって住み継がれるものでなくなり、いわゆるスクラップビルドが繰り返されてきた現代において「建てる」という短い言葉に、己の真実を注ぎ込んできた横田がその思いを語ります。 |
建築の世界へ
「手に職をつけろ」。母の言葉で建築畑へ
怖い顔をしてるって、よく言われるんですがね。まあ確かに愛想のいい顔ではないでしょうな。おまけに物言いもぶっきらぼうだしね、よくお客様がついてくださるもんだなと、自分でも感心することがありますよ。
ただ、嘘を言わないのと、何が本当にお客様にとっていいことなのかを、誰よりも真剣に考えていることだけは確かです。そのことだけはものをつくる人間の責任として、ずっと変わらずに貫いてきました。横田建設という小さな会社が、曲がりなりにも40年近く、こうしてやってこられたのも、そういうところを皆さんが評価してくださったおかげではないかな、と思っています。
私は終戦の年には5歳でした。兄弟が7人も居ましてね、母が大変な思いをして育ててくれました。学校を卒業したらすぐに自分で食べていかなくてはなりません。母の「とにかく手に職をつけろ」という方針で建築学校に行き、殖産住宅に就職しました。
この殖産住宅で、私は住宅のイロハを教わりました。当時の殖産住宅の顧客というのは大金持ちばかり。麻布や松濤といったお屋敷町や、熱海、伊豆などの別荘地に豪邸をどんどん建てるんですよ。鉄筋、鉄骨、RC、もちろん木造もあって、予算は関係なく、要求されるものをどうやって建てるかだけに集中していられた。仕事は相当きつかったですが、ここで培われたものは後々おおいに役立ちましたね。私のベースと言っていいと思います。
横田建設を創業
昭和50年に35歳で独立。その時にまず決めようと思ったのが、自分は家を建てる人間になるのか、家を売る人間になるのか、ということでした。殖産住宅時代に鍛えられていたので、「建てる」ことについては自信がありました。ところがもう一方の「売る」となると、とんと自信がありません。自分に営業センスがあるとはどうしても思えないのです。よし、こうなったら"ものづくり"で押し通すしかない。そんな私を、生後1年の息子を抱いた妻が「大丈夫。あなたならなんとかなるわよ」と勇気づけてくれました。
幸い、大手ハウスメーカーの下請けの仕事をいただき、会社は順調に滑り出しました。しかし、すぐに私は大きな悩みにぶつかりました。それは、大手ハウスメーカーの下請けという仕組みの中にいては、家を「建てる」というスタンスをしっかり守ることができないという、自身の根幹にかかわる悩みでした。
「いい家」との出会い
工期短縮はしたくない!
大きな住宅会社で重要な目標とされることの一つに、工期の短縮があります。私がひっかかったのは、まさにこの点でした。工期を短縮することで、誰が喜ぶかというと、それは住宅会社です。当然棟数を増やすことができますから、利益につながります。
一方、お客様は喜んでいるでしょうか。これは余程特殊な場合を除いて、まず喜ぶ人はいないと言えるでしょう。むしろ、クレームにつながるケースが圧倒的に多いのです。なぜかと言うと、短かい期間で家づくりを行うと、それだけ打ち合わせの時間が減り、言い残したことや思い違いを確かめる暇さえなく、工事が終わってしまうからです。
これでは全然お客様が喜ぶような家はできないではないか、というのが私の直面した悩みでした。やはり大企業の論理では、私の思うような建て方はできない。そう考えた私は、直接お客様から注文を受けて家づくりをする方法を、模索し始めました。
「いい家」をつくる会の一員として
どういう家ならば、大手ハウスメーカーにも負けない魅力があり、お客様にも喜んでいただけるのだろうか。しかも思う存分時間をかけて、お客様にも納得していただきながら建てることができるのだろうか。
それを探りながら、できる限り直接受注のお客様を増やす努力をしていた時、外断熱工法を推進する松井会長と出会いました。
数年後、その松井修三氏が代表を務める、現在の『いい家をつくる会』が発足し、全国で真剣に家づくりに取り組む仲間たちと共に、木造軸組+外断熱の家づくりに邁進してきました。
この会は日々の現場での実証をもとに進化を続けており、現在では新換気SA-SHEの家として、全国で施工されています。
「いい家」に取り組むようになってから、じっくりと時間をかけた家づくりをすることができるようになりました。急かされないことで、お客様には迷ったり、相談したり、確認したりする時間が十分にあります。職人たちも、コンクリートを十分に養生したり、腕の見せ所である納まりにこだわって仕上げたりする時間を与えられます。何より嬉しいのは、大金を払われるお客様がにこにこして、「有難う」の言葉を添えてくださることです。
未来へのもう一歩
建てた家がある限り、横田建設も元気に存続し続けます
無我夢中で走ってきましたが、気が付くと私ももう70歳。まだまだ気力・体力には自信がありますが、お客様のお家を今後も十分にケアしていくためには、しっかりとした体制を社内に築いておかなくてはなりません。
幸いなことに、息子の裕介がイタリアンレストランのシェフの職をなげうって、会社に戻ってきてくれました。社員も仕事の大好きな、まじめな人ばかりが集まってくれて、二代目を盛り上げようと、未来に向けての様々な設計図を描いてくれています。
- 「自分たちが"ものづくり"であるという本分を忘れないこと。」
- 「頑丈で安全で、お客様が健康に暮らせる家をつくること」
- 「お客様の家であることを忘れずに、ゆっくり、時間をかけてつくること。」
これらの横田イズムは失わず、そこにまた新しい色を付け加えて、横田建設をますます、お客様にとって頼りがいのある場所にしていってほしい。
ものをつくることは、それ自体が喜びではありますが、そのことによって誰かを喜ばせることができるということが、やはり究極の幸せ。社員にも、その幸せを追及していってもらいたいと思います。